東海道五十三次宿場の概要

1.東海道五十三次

東海道は、江戸日本橋の武蔵国から相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、伊賀、近江、山城の国々を通り、 京都の三条大橋まで五十三次あります。その総距離は約490kmでありました。徳川家康は、慶長6年 (1601年)に東海道に 宿駅伝馬制度を敷き、街道沿いに宿場を設けました。公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度でありました。 輸送の範囲は原則として隣接する宿場までで、これを越えて運ぶことは禁止されていました。 東海道には江戸から京都までの間に53の宿場があり、江戸から京都まで物資を運ぶ場合は53回の継ぎ替えをする ことから「五十三次」と呼ばれるようになったようです。

2.宿場の概要

No. 浮世絵画像 宿場名 前の宿場からの距離 概  要 (抜粋)
起点 日本橋
(中央区)
起点 ●日本橋 (東京都中央区) - 武蔵国
出典・引用 : wikipedia 日本橋 (東京都中央区)
日本橋は、東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋である。現在の橋梁は1911年に完成し、 国の重要文化財である。また、日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。

広域地名としての日本橋は、東京都中央区北部で、日本銀行本店や東京証券取引所の 立地する日本を代表する金融街であり、また老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも 問屋街や多くの製薬会社が連なる地域である。
1 品川宿
(品川区)
7.9km ●品川宿 - 武蔵国
出典・引用 : wikipedia 品川宿
慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、 新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線の北品川駅から南は 青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。

品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の 玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いという。
2 川崎宿
(川崎市)
9.8km ●川崎宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 川崎宿
東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、 伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された。

川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、本陣は田中本陣・佐藤(惣左衛門) 本陣・惣兵衛本陣があったが、惣兵衛本陣は江戸後期には廃業していた。
3 神奈川宿
(横浜市)
9.8km ●神奈川宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 神奈川宿
東海道五十三次の3番目の宿場である。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川 本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地 として栄えた。旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、 上台橋を通っていた。旧東海道はそのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から現在の環状1号線に 沿って天王町駅、保土ヶ谷駅方面へ進む。
4 保土ヶ谷宿
(横浜市)
4.9km ●保土ヶ谷宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 保土ヶ谷宿
1601年(慶長6年)、武蔵国橘樹郡程ヶ谷(現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)に置かれた。 程ヶ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町からなる。 1648年(慶安元年)までは元町付近に宿場があり、東海道も西北の位置にあったが、新町 (下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった。

新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない。
5 戸塚宿
(横浜市)
8.3km ●戸塚宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 戸塚宿
東海道五十三次の5番目の宿場である。東海道では相模国最東端の宿場町である。 相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、 旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、 上記の理由から戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町イオン前と戸塚町大坂下(バス停前)にあり、 品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。
6 藤沢宿
(藤沢市)
7.9km ●藤沢宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 藤沢宿
東海道五十三次の6番目の宿場である。神奈川県藤沢市にあった。 慶長6年(1601年)に東海道の宿場となった。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。 東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の 江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。
清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側 の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。
7 平塚宿
(平塚市)
13.7km ●平塚宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 平塚宿
東海道五十三次の7番目の宿場である。現在の神奈川県平塚市にあった。
8 大磯宿
(平塚市)
2.9km ●大磯宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 大磯宿
東海道五十三次の8番目の宿場である。現在の神奈川県中郡大磯町にあった。
9 小田原宿
(小田原市)
15.7km ●小田原宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 小田原宿
東海道五十三次の9番目の宿場である。今の神奈川県小田原市にあった。江戸を出て最初の城下町の宿場である。
10 箱根宿
(足柄下郡)
16.6km ●箱根宿 - 相模国
出典・引用 : wikipedia 箱根宿
東海道五十三次の10番目の宿場である。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。 元和4年(1618年)に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置されたとある。これに対して 古くからの箱根の町があった関所から小田原宿寄りの地域を「元箱根」と呼ぶ。これは関所設置に不満を抱いた 元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、三島宿寄りに急遽人工の町を設置したためである。
標高725mという五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。
11 三島宿
(三島市)
14.8km ●三島宿 - 伊豆国
出典・引用 : wikipedia 三島宿
東海道五十三次の11番目の宿場である。現在の静岡県三島市にあった。本陣2、旅篭数74。 江戸幕府の天領であり、宝暦9年(1759年)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていた。
12 沼津宿
(沼津市)
5.9km ●沼津宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 沼津宿
東海道五十三次の12番目の宿場である。現在の静岡県沼津市大手町周辺にあった。 本陣3、脇本陣1、旅篭屋55、総戸数1234を数えた。
13 原宿
(沼津市)
5.9km ●原宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 原宿
東海道五十三次の13番目の宿場である。現在の静岡県沼津市にある。宿場として整備される以前は 浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。
14 吉原宿
(富士市)
11.8km ●吉原宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 吉原宿
東海道五十三次の14番目の宿場である。現在の静岡県富士市に位置する。 陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても機能した。
吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な 被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原)。 しかし1680年(延宝8年)8月6日の高潮[1]により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町 (吉原商店街)に移転した。
15 蒲原宿
(静岡市)
11.2km ●蒲原宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 蒲原宿
東海道五十三次の15番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する (2006年3月30日までは蒲原町と呼ばれていた)。
16 由比宿
(静岡市)
3.9km ●由比宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 由比宿
東海道五十三次の16番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する。 本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。東海道名主の館(小池家住宅)が、 1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けた。
17 興津宿
(静岡市)
9.1km ●興津宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 興津宿
東海道五十三次の17番目の宿場である。 興津という地名は、興津宗像神社祭神の1柱・興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がこの地に住居を 定めたことからといわれている。また、平安末期から興津氏が居住していたのでその名を地名にしたとの説もある。

古代での呼び名は奥津 (おくつ) 、息津(おきつ)、沖津 (おきつ) ともいわれている。現在、興津と呼ばれる 区域は1961年に当時の清水市と合併した旧興津町と重なる。
18 江尻宿
(静岡市)
4.1km ●江尻宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 江尻宿
東海道五十三次の18番目の宿場である。旧清水市の中心部、現在の静岡市清水区に位置する。
19 府中宿
(静岡市)
10.6km ●府中宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 府中宿
東海道五十三次の19番目の宿場である。街は城下町である駿府の一角を成していた。現在の行政区画では 静岡市葵区に属する。

徳川家康のお膝元であり、旧東海道はJR静岡駅の北側に位置する駿府城との間を抜け、 安倍川に至る。川の手前の西見付がかつてあった弥勒辺りには、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に登場する 安倍川餅を売る売店が存在する。
20 鞠子宿
(静岡市)
5.7km ●鞠子宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 鞠子宿
東海道五十三次の20番目の宿場である。丸子とも書く。現在の静岡県静岡市駿河区丸子で、最寄り駅は 東海道線安倍川駅である。東海道中でもっとも小さい宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、家の数は 211軒、旅籠は24軒であったという。東海道伝馬制の制定により、丸子が宿場町となったのは、関ヶ原の戦いの翌年 の1601年で、江戸から数えて20番目の宿場町であった。

名物はとろろ汁で、歌川広重が「東海道五十三次」に描いた丁子屋は有名である。
21 岡部宿
(藤枝市)
7.9km ●岡部宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 岡部宿
東海道五十三次の21番目の宿場である。現在の静岡県藤枝市岡部町である。 隣の鞠子宿(静岡市)との間の旧国道1号(静岡県道208号藤枝静岡線)沿いや宇津ノ谷地区には、 昔の街並が残る。

1836年(天保7年)再建の旅籠・柏屋(かしばや)は、国の登録有形文化財に登録されている。
22 藤枝宿
(藤枝市)
6.8km ●藤枝宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 藤枝宿
東海道五十三次の22番目の宿場である。現在の静岡県藤枝市の山沿い、本町および大手にかけての一帯。 歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、また塩の産地であった相良に至る田沼街道 への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。

モータリゼーションにより藤枝バイパス等が整備され、静岡市のベッドタウンとなっている。
23 島田宿
(島田市)
8.2km ●島田宿 - 駿河国
出典・引用 : wikipedia 島田宿
旧名「嶋田宿」は、東海道五十三次の23番目の宿場である。 現在の静岡県島田市。大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣り などの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせた。長雨により、滞在費と 遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくなかった。そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際に家を 借りた名残で、島田の旧・東海道沿いには御仮屋という地名がある。  
大井川上流から切り出された木材の集積地としても発展。
24 金谷宿
(島田市)
3.9km ●金谷宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 金谷宿
東海道五十三次の24番目の宿場である。遠江国最東端の宿場町である。 現在の静岡県島田市金谷。大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、 増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような 賑わいをみせた。
25 日坂宿
(掛川市)
6.5km ●日坂宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 日坂宿
東海道五十三次の25番目の宿場である。 現在の静岡県掛川市日坂に当たり、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置する。 宿場の西の入口には、事任八幡宮を擁する。古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で記されており、大井川の畔の 金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかったが、江戸時代に入って正式に 五十三次に加えられて整備され、字も日坂に統一された。 1955年、小笠郡日坂村が掛川市に合併し、それ以降は掛川市の大字となり現在に至っている。
26 掛川宿
(掛川市)
7.1km ●掛川宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 掛川宿
東海道五十三次の26番目の宿場である。 現在の静岡県掛川市の中心部であり、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町でもある。
また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国 へ通じる塩の道が交差している宿場でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして 秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と 参詣者の姿が描かれた。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名がある。
27 袋井宿
(袋井市)
9.6km ●袋井宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 袋井宿
旧東海道の宿場で、東海道五十三次の宿場の数では江戸から数えても京から数えても27番目で中間点にあたる。 他の宿場より少し遅れて元和2年(1616年)までに整備された。

現在の静岡県袋井市中心部にあたる。周辺に遠州三山をはじめ歴史ある寺や神社が点在し、門前町の形で栄えた。
28 見付宿
(磐田市)
5.9km ●見付宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 見付宿
東海道五十三次の28番目の宿場である。現在の静岡県磐田市見付付近にあたる。 現在の静岡県磐田市中心部。「見附」の名は、水(み)に接する土地であることが由来である。後付けで、 京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたと、江戸時代の言葉遊びで尤もらしく語られた[要出典]。 西北方向には一の谷中世墳墓群がある。
東海道本線敷設にあたり、見附宿の南方の中泉村に中泉駅が設置された。見附と中泉は1940年に合併して 磐田町となり、1948年に市制施行した。
29 浜松宿
(浜松市)
16.5km ●浜松宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 浜松宿
旧名「濱松宿」 は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の江戸から数えて29番目、京から数えて25番目にあたる。 また実距離では、江戸から京との中間にあたり、名実共に関東関西の中間地域であった。遠江国敷知郡(ふちごおり) の中心にあたり、司法行政を浜松藩が取り仕切っていた。
現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒も あったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。天竜川の右岸にもあたるが、洪水の度に川の流れが 変わったこともあり、現在の川岸からは6kmほど離れている。
30 舞坂宿
(浜松市)
11.0km ●舞坂宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 舞坂宿
東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、旧国は遠江国にある。現在の静岡県 浜松市西区舞阪町に相当する。

舞坂宿は東海道に設置され、浜名湖東岸の今切口に面した標高約3m前後の低地に立地していた。、北に新川があり、 西側に浜名湖(今切口)に面し、南に遠州灘(太平洋)がある。現在の静岡県浜松市西区舞阪町舞阪に相当する。 尚、旧来江戸時代の地名は「舞坂」であったが、現在は「舞阪」である。
31 新居宿
(湖西市)
5.9km ●新居宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 新居宿
東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。 浜名湖西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地し、隣接する新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面 していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面していた。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化している。新居関所は、 「新居関跡(あらいのせきあと)」として、国の特別史跡に指定された。隣接地に新居関所史料館がある。
32 白須賀宿
(湖西市)
6.5km ●白須賀宿 - 遠江国
出典・引用 : wikipedia 白須賀宿
東海道五十三次の32番目の宿場である。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、且つ、現在の47都道府県でも 静岡県最西端の宿場町である。西の加宿境宿で売られていた柏餅は、白須賀宿の名物として有名だった。 元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、 その後潮見坂の上の高台にある現在地に移された。

天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模である。
33 二川宿
(豊橋市)
5.8km ●二川宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 二川宿
東海道五十三次の33番目の宿場である。三河国最東端の宿場町である。征夷大将軍の天領であった。 現在の愛知県豊橋市二川町と大岩町に相当する。

1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していた。 しかし小さな村であり、また1.3kmほど離れていたため、しばらくすると負担に耐えられなくなった。江戸幕府は1644年 (正保元年)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩町として再構成させた。
34 吉田宿
(豊橋市)
6.1km ●吉田宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 吉田宿
東海道五十三次の34番目の宿場である。現在の愛知県豊橋市中心部に相当する。
慶長6年(1601年)の伝馬朱印状があり、東海道が設定された当初からの宿場であった。江戸の日本橋より西方73里 (約287km)に位置し、東の二川宿とは1里20町(約6.1km)、西の御油宿とは2里20町(約10.5km)離れており、 町並は23町30間(約2.6km)の長さがあった。征夷大将軍の徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の 吉田藩の所領であり、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた宿場町であった。表町12町と裏町12町の計24町 で宿を構成されており、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒あった(1802年)。
35 御油宿
(豊川市)
10.3km ●御油宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 御油宿
東海道五十三次の35番目の宿場である。現在の愛知県豊川市御油町に所在する。街道の面影を残す松並木(御油の松並木) が美しいことから観光地になっている。 1601年に徳川家康が江戸日本橋から数えて35番目の宿駅として開設。本陣が最多時4軒。最少時2軒。

江戸風俗史にある尻尾の短い猫は御油猫と呼ばれ流行したが、御油から持ち込まれ、御油・赤坂の宿場駅間の短さを尻尾に 例えて呼ばれた。1959年には、宝飯郡御油町は豊川市と合併した。
36 赤坂宿
(豊川市)
1.7km ●赤坂宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 赤坂宿
東海道五十三次の36番目の宿場である。現在の愛知県豊川市赤坂町に当たる。 と言われた程、御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていた同地は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで 江戸通い」活気のある宿場町であったが、官設鉄道(現在のJR)が鉄道(現在の東海道本線)を開通させるときの経由地 から外れたために、御油宿同様、繁栄を鉄道通過地に奪われた。

赤坂宿と御油宿との間隔は、東海道の宿場の中で最も短く、2km足らずである。
37 藤川宿
(岡崎市)
8.3km ●藤川宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 藤川宿
東海道五十三次の37番目の宿場である。現在の愛知県岡崎市藤川町辺りである。 東海道が三河高原を横断する御油断層の谷間から、西の平地への出入口にあり、中世から交通の要地で、 1601年(慶長6年)の伝馬制度により設置された。

藤川宿は、国土交通省により愛知県で唯一歴史国道に選定されている。また脇本陣跡が岡崎市指定史跡、 駒曳朱印状と高札が同市有形文化財に指定されている。
38 岡崎宿
(岡崎市)
6.6km ●岡崎宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 岡崎宿
東海道五十三次の38番目の宿場である。現在の愛知県岡崎市中心部に当たる。 石高は五万石しかなくとも徳川幕府の下では神君生誕の三河国岡崎城(築城は三河西郷氏の西郷稠頼) の城下町を背景に宿場町の規模も駿河国府中宿(静岡県静岡市葵区)に次いで大きかった。
39 池鯉鮒宿
(知立市)
15.0km ●池鯉鮒宿 - 三河国
出典・引用 : wikipedia 池鯉鮒宿
東海道五十三次の39番目の宿場である。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。現在の愛知県知立市に位置する。 江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれている。

馬市が立ったことで知られており、歌川広重の「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として描かれている。 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。また三河地方の特産品であった木綿市 も開かれていた。
40 鳴海宿
(名古屋市)
11.1km ●鳴海宿 - 尾張国
出典・引用 : wikipedia 鳴海宿
東海道五十三次の40番目の宿場である。現在の愛知県名古屋市緑区にある。
41 宮宿
(名古屋市)
6.6km ●宮宿 - 尾張国
出典・引用 : wikipedia 宮宿
東海道五十三次の41番目の宿場である。場所は現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。 中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。 一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。 東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、 人口10,342人を数えたという。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、 岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。 江戸時代中期以降は四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用された。
42 桑名宿
(桑名市)
24.5km ●桑名宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 桑名宿
東海道五十三次の42番目の宿場である。現在は三重県桑名市。脇往還佐屋街道もここから分岐していた。 徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。

宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および、伊勢参りの玄関口となっていた。 江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、 市街地は西にシフトした。
43 四日市宿
(四日市市)
12.7km ●四日市宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 四日市宿
東海道五十三次の43番目の宿場である。現在は三重県四日市市。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていた。

宮宿との間に「十里の渡し」があった[1]。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。
44 石薬師宿
(鈴鹿市)
10.8km ●石薬師宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 石薬師宿
東海道五十三次の44番目の宿場である。現在は三重県鈴鹿市。
1616年(元和2年)に宿場となった。
45 庄野宿
(鈴鹿市)
2.7km ●庄野宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 庄野宿
東海道五十三次の45番目の宿場である。現在は三重県鈴鹿市。
46 亀山宿
(亀山市)
7.9km ●亀山宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 亀山宿
東海道五十三次の46番目の宿場である。現在は三重県亀山市。
47 関宿
(亀山市)
5.9km ●関宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 関宿
東海道五十三次の47番目の宿場である。三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しており、2005年1月11日に 「平成の大合併」で亀山市に合併された関町があったところでもある。

古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分 からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。
48 坂下宿
(亀山市)
6.6km ●坂下宿 - 伊勢国
出典・引用 : wikipedia 坂下宿
東海道五十三次の48番目の宿場である。現在の地番は三重県亀山市関町坂下。 かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり (宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmであった。)戸数約150戸、人口500人あまりと記録される。

現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、 2005年(平成17年)の調査では戸数89軒・人口147人と過疎化が進行している。
49 土山宿
(甲賀市)
9.8km ●土山宿 - 近江国
出典・引用 : wikipedia 土山宿
東海道五十三次の49番目の宿場である。現在の滋賀県甲賀市土山町北土山および土山町南土山にあたる。 江戸幕府が土山を宿駅に指定してから、宿場町として真に隆盛しはじめた。宿場の中心は御役町で、そこに問屋場、 本陣、脇本陣があり、その周囲に旅籠や店、茶屋などがあり、細長い宿場町を形成していた。 また、幕府は御役町の保護のため、地子の免除その他の特権を与えていた。

1843年の「東海道宿村大概帳」によると、家数351軒、人口1,505人、本陣2軒、旅籠屋44軒を数えた。
50 水口宿
(甲賀市)
10.6km ●水口宿 - 近江国
出典・引用 : wikipedia 水口宿
東海道五十三次の50番目の宿場である。現在は滋賀県甲賀市水口町旧市街。 石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっていた。 室町時代に宿駅の機能を有するようになった。

1843年の「東海道宿村大概帳」によると、家数692軒、人口2692人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋41軒を数えた。 本陣は作坂町の鵜飼伝左衛門家、天王町の儀峨彦之丞家と堤文左衛門家があった。
51 石部宿
(湖南市)
13.7km ●石部宿 - 近江国
出典・引用 : wikipedia 石部宿
石部宿は京都を出て1日の行程にあり、「京立ち石部泊り」と言われた。 湖南市内には東海道石部宿歴史民俗資料館があり、宿帳などの歴史資料が展示されている。 しかし、旧街道沿いは主だった保存活動をしてこなかったため昔の宿場町の風情や街並みは残っていない。

江戸方面に進むと、水口宿との間、現在の湖南市夏見に藤棚を備えた立場があったが、ここの茶店がところてんに 黒蜜をかけて食べる発祥の地であるといわれる。
52 草津宿
(草津市)
11.8km ●草津宿 - 近江国
出典・引用 : wikipedia 草津宿
東海道五十三次の52番目の宿場で、中山道が合流する。現在は滋賀県草津市市街。本陣が現存し、 国の史跡に指定されている。

天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、 旅籠72軒で宿内人口は2,351人であった。
53 大津宿
(大津市)
14.4km ●大津宿 - 近江国
出典・引用 : wikipedia 大津宿
東海道53番目(→東海道五十三次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。

江戸時代、大津と京都を結ぶ旧東海道の区間では牛車の往来をスムーズにするために道に「車石」と呼ばれる花崗岩 の石が敷かれた。明治時代に馬車の利用が進むと車石は撤去され、撤去された車石は石垣などに利用された。
終点 京都
(京都市)
11.8km ●京都(三条大橋) - 山城国
出典・引用 : wikipedia 京都
1601年(慶長6年)に徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。 京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。

江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、 流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。

   ●出典・引用・参考サイト
       1.距離データは、下記サイトで提供している計算ツールにて得られた結果を利用しました。
          keisan 江戸 ウオーキング東海道五十三次
       2.浮世絵画像は、下記サイトで提供している画像ファイルを利用しました。
          浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」
       3.掲載されている五十三次の一覧より宿場名や距離、リンクされる各宿場の概要を参考および一部を抜粋しました。
          ウィキペディア(Wikipedia)「東海道五十三次」
       4.東海道への誘いのQ&Aから五十三次の意味について参考・引用しました。
          「東海道への誘い」 国土交通省関東地方整備局 横浜国道事務所